白金高輪歴史探訪

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〜シリーズ 坂〜 第2回「幽霊坂」

2回目の坂は三田四丁目にある、「幽霊坂」をご紹介します。

なんとも怖い響きの坂ですが、実は都内には何か所も「幽霊坂」という名前の坂があります。幽霊坂はその名の通り、お墓やお寺などの近くの薄暗く寂しい雰囲気の坂にこの名前がついていることが多いです。坂とお寺の多い東京ならではの名称ですね。そして、ここ三田の幽霊坂は、数ある幽霊坂の中でも一番幽霊坂らしい坂かもしれません。というのも、道の両側にはお墓とお寺が密集し、夜は暗く、人通りもほとんどないため、夜に歩くだけでプチ肝試しができるくらいの雰囲気があります。

場所は国道1号線の魚藍坂下を慶應大学方面に少し進んだ右側が幽霊坂の入り口。坂上は聖坂に交わります。坂が別の坂の途中にぶつかる坂というのも、実はかなり珍しいです。一方通行の細い坂ですので車はほとんど通らず、近隣の住人が日常の道として利用されている生活道路。抜け道としてショートカットするときにはとても便利な坂でもあります。近くには御田小学校があるため、朝夕は通学の子供達の声で賑やかになります。

実は、このエリアはかつて三田寺町と呼ばれ、今でも多くの寺院が密集しています。なぜこれほどまでに寺院が密集したかというと、江戸時代初期(寛永12年、1635年)に江戸城拡張工事が行われた際に、八丁堀にあった寺院が当時の都市計画に基づいて移設されたことにより、この台地にたくさんの寺院が集められました。同じように移設された寺院は他の地域にもたくさんあったのですが、関東大震災や東京大空襲の被災を免れ、今でも当時の面影を残しているのは珍しく、だからこそ、この独特の空気感が幽霊坂らしさをより一層演出しています。一方で、当時坂上のエリアは「月の岬」と呼ばれており、高台から江戸湾越しに月を一望できる風光明媚な場所もありました。(現在は埋め立てが進んで、海は見えませんが、当時田町あたりは海岸線でした)そんな風情が行き来する不思議な場所がこの三田寺町エリアだったのです。
坂の名称の由来として、やはり名前からくる負のイメージは強いので、明治時代、文部大臣・森有礼(もり ありのり。その名「有礼」を音読みすれば「ユウレイ」)の屋敷が付近にあったことに因む、とするという説もあり、諸説あるというのが公式見解です。

次に実際歩いた時の感想です。坂は、途中かなり勾配のきつい部分がありつつも、坂下と坂上の部分はややなだらかな勾配となっています。一直線で途中に信号もないため、自転車で下るとスピードが出過ぎるので、注意が必要です。坂下と坂上の付近には住宅もたくさんあるので、ずっと幽霊っぽさをを感じるかといえばそうでもありません。坂上の通りにはマンションも多く立ち並んでいます。
ちなみに、筆者は真夜中に一人でこの坂を行ったり来たりして写真を撮りましたが、幸か不幸か幽霊には出会えませんでした。(笑)

実は白金高輪エリアには「幽霊坂」もうひとつあった!?

都内に何か所かある幽霊坂ですが、この白金高輪エリアには、もうひとつ幽霊坂があるのをご存知でしょうか?一般的にはほとんど知られていませんが、高輪台幼稚園から泉岳寺に抜ける坂が、実は「幽霊坂」なのです。坂の表示はないので、まず知られていません。よってマニアック度は五つ星!
坂の近隣には、墓地や寺院などありませんが、夜はちょっと薄暗く、人通りも少ないです。幽霊坂と言われれば、ちょっと怖く感じてしまいそうです。
途中道がカーブしているのですが、江戸時代、沼津藩と兵庫藩のお屋敷になっていた場所で当時の地図を見ると屋敷の池があったようで、そこを迂回している名残かもしれません。

基本情報
名称:幽霊坂
場所:三田四丁目
距離:約250m
標高:坂下:7m、坂上26m
歴史度:★★★★★
マニアック度:★★★☆☆
(もう一つの幽霊坂は、マニアック度:★★★★★)
※標高は国土地理院電子国土Webにて調べた数値です