白金高輪歴史探訪

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道を歩けば歴史を感じるの巻

JR新駅「高輪ゲートウェイ駅」が、来年の仮オープンに向けて工事を進められています。
「プラたか」の「たか」は、高輪の「たか」なので、新駅名に「高輪」が入っているので、ちょっと嬉しかったりします。

高輪ゲートウェイ駅だけでなく、いくつかの主要駅を要する白金高輪エリアですが、その中で規模の大きな駅といえば、1日で37万人以上利用すると言われている品川駅でしょう。
1日に37万人ってすごいですよね。分かりやすく例えれば、長野市の人口くらいです(余計に分かりにくい)。

こちらは、リニア始発駅になるだけでなく、高輪口の再開発の動きが活発になっており、京急品川駅が地上1階に下りて、歩行者通路はデッキ化されるなど、未来の街の絵が満載です。

そんな高輪口にひっそりとある、品川駅創業記念碑をご存知でしょうか。

品川駅にもしっかり、歴史が刻まれています。それでは、白金高輪歴史探訪、スタートです!!

さて、突然ですが、ここで問題です。
日本で最初に開通した鉄道路線といえば・・・??

・・・。

明治5年(1872)9月12日開通の新橋と横浜間なのは有名ですが、
でーすーがー、これに先駆けて開通した路線はご存知でしょうか??

答えは、品川と横浜間です!こちらは、5月7日に開通しています。
つまり、5月から9月までは、仮営業していたということですね。ここに、品川駅の歴史を感じます!

なぜ、仮営業していたかというと、当初、鉄道は陸上を通す予定でしたが、兵部省(軍政行政機関)から、高輪にあった軍用地を通過することを理由に反対されてしまい、高輪と品川間は海の中に土手を作り、その上を通すことになりました。

そのため、先に品川と横浜間が開通して仮営業したのです。(全路線の1/3は海上の土手だったそうな。)

高輪と品川間ってどういうこと!?と感じるかもしれませんが、当時の品川駅は、現在の駅よりも400m程、南に位置し、旧東海道の品川宿に近いところにあったそうです。
ちなみに、京急線にも高輪駅というのが存在していたそうです(現在のウィングWESTの辺り)。

現在の品川駅の場所には明治29年に移され、先述の品川駅創業記念碑が建立したのは、さらに後の昭和28年(1953)4月のことです。

こちら、表面碑文は、大野伴睦の筆で、背面には開業当時の列車時刻表と料金表が記されています。


こちらの料金表を見ると、高いのか安いのかわかりませんねぇ。
下等運賃で米10kg買えたそうなので、現在価格でおよそ2,500円~3,000円程度(価格.com調べ)だと思います。うーん、新幹線みたいなものだと思えば・・・!!

度重なる再開発を経ても、品川駅の歴史を感じさせる記念碑は残していきたいですね。

さて、プラたか取材班はこのまま東海大学へ向かいましたが、この道中にもしっかり歴史を感じましたので、加筆いたします!!

皆さんはこの場所をご存知でしょうか??
江戸時代以前は、京都から奥州へ向かう主要な幹線道として機能していました。

実は、ここ、高輪3丁目付近は、戦国時代の戦跡でもあるのです。

時は遡ること、大永4年(1524)。
武蔵野国への進出を計画していた小田原城主・北条氏綱は、江戸城を支配していた上杉朝興と敵対していました。

そして正月13日。

北条氏綱は、1万~2万の兵をもって来襲。

北条氏綱の先陣と上杉勢が、この高輪3丁目辺りで最初の戦を繰り広げました。

結果は、上杉家、家臣・太田源六郎資高、源三郎資貞 兄弟と内通していた北条氏綱が有利に戦況を運び、戦闘中に、氏綱の第2陣が到着。

挟み撃ちとなった上杉勢は江戸城まで退却しましたが、持ちこたえることは出来ず、その日の夜に河越城(埼玉県川越市)へ落ち延びたそうです。

史跡では、「高縄原古戦場跡」とされています。

道を歩けば歴史探訪。まさに白金高輪の魅力の一つです!!

それでは、今回はこれにて!