白金高輪歴史探訪

HOME > 白金高輪歴史探訪 > 三田台の古墳!? 亀塚公園に迫る!!

三田台の古墳!? 亀塚公園に迫る!!

プラたか.net取材班のYNMに振り回されて、あちこち取材する羽目になったSS氏と共に、三田台~高輪付近をチャリンコで散策中でございます。

お城を探したい!大正建築物に浪漫を感じたい!と巡り巡って本日は「古墳」をチョイス!
こんなところに古墳なんてあるの?と疑いの目を向けられている皆様。

あるんです!

それでは、Let’s Go!!(頭の中には、あのbackがtoでfutureするBGMを。)
訪れたのは、三田台の静かな住宅地にある面積9,183㎡の広大な港区立亀塚公園。

日中は保育園の子供達が元気に走り回り、時にNPO法人みなと外遊びの会がプレーパークを開催。
近隣町会が夏祭りやお花見を催したり、御田小地区防災協議会が行政と防災訓練を開催する等、三田台地域の拠点とも言える憩いの公園です。

名前の由来である「亀塚」と呼ばれる塚が公園内にあり、実はこの塚が「古墳」と考えられています。さっそく、この亀塚の頂部に立ち、歴史を感じたいと思います!

亀塚の頂部に立ってみました。木々が生い茂っていますが、おそらく昔の眺めは相当良かったはずです。
(文明年間1469-1487には、太田道灌がここに斥候(ものみ)を置いたと伝えもあります。)

今、取材班が立っているこの亀塚は「円墳」と言われています。円墳とはいわゆる古代の偉い人のお墓「古墳」の一種で、平面が円型の墳丘形式古墳でございます。
お墓の上に立つなんてこりゃ失礼!しかし、まだ古墳とは言い切れません。

港区教育委員会の記録によると、過去に5回調査を実施しており、塚は盛土であると確認されています。また、古墳時代の土器の破片が多数発見されたので、古墳時代以後に築造されたものと考えられているそうですが、内部構造が不明のため古墳とは断定していないそうです。

古墳とは断定していないので、なんだあんまり歴史ロマン感じないなぁと思いの方。いやはやしかし、周辺の地域からは貝塚や古代住居跡が発掘されています。

付近の三田台公園には、昭和53年(1978)7月から約1年半かけて港区教育委員会が行った伊皿子貝塚遺跡の発掘調査で発見された住居が再現されていますので、ここが古代人の生活の地であったことは間違いないのです!

また、亀塚の頂部には石碑があり、この亀山碑と言われるのが「亀塚」の由来です。

この亀山碑を建立したのが、上野(こうづけ)国 沼田藩主 土岐(とき)頼熈(よりおき)で、寛延3年(1750)のことです。

亀塚公園は、江戸時代になると上州沼田の藩主土岐家の屋敷になったそうです。
そして、明暦3年(1657)にこの地を下屋敷として拝領した土岐家こそ、亀塚の由来を作られた主でございます。

詩文に秀でた大名である頼熈(よりおき)は、このあたりが更科日記の竹芝寺伝説地であることや、塚の頂部にある酒壺のもとに出入りすることで神として崇めていた亀が、ある夜の風雨のために石になったという土地の由来を伝えるためにこの碑を建立したと考えられています。

※ 更科日記とは菅原孝標女が綴った思春期的な憧れと、でも現実はね・・・って日記。
※ 竹芝寺伝説とは、宮中の警備員をしていた竹芝の男がぼやいている故郷の話を皇女が聞いて、私を故郷に連れてって。という流れになり、これは宿命なのだ!と罪を覚悟して男が皇女を背負って、めちゃ草が生い茂っている竹芝に駆け落ちした。取り戻そうとしたけど、皇女の意思は固く、男を罪にしても皇女は戻ってきそうにないので、そこの国を皇女に預けて税も免除してあげるからよろしく暮らせ、と都が寛大だった。その男女が無くなった後、その地を寺にした。という伝説。

ちなみに、同じく三田四丁目の済海寺は竹芝寺の跡地という話もあります(史実は不明)。

古墳時代から江戸時代まで、歴史がいっぱい詰まった亀塚公園。すぐ近くの三田台公園も合わせて訪れてみてくださいね。

では、古墳時代のロマンを胸に馳せ、亀塚公園編はこれにて。